20日 朝日新聞夕刊
川浪さんは困民丸発足当時 富山にいらしてアドバイスをしてくださった方です
彼のような活動に至るには どれだけの積み重ねが必要なのでしょうか
大阪府の僧侶、川浪剛さん(48)の実家は寺ではなかった。父親は日雇い労働者。そのことへの劣等
感にとらわれていた。仏教の道へ進んでからも迷いが残る。自分に向き合おうと、一時は路上生活へ。そ
んな回り道を経て、原点である労働者の町に戻ってきた。
(磯村健太郎)
大阪市の小さなサロンで今月3日、紙芝居と歌、寸劇を組み合わせた「紙芝居劇」が行われた。演じる
6人は平均75歳以上。国内最大の日雇い労働者の町、西成区の釜ケ崎(あいりん地区)を拠点に働いた
り、路上生活をしたりした経験のある男たちである。
出し物は、女の子が臨死体験のなかで冥土をめぐり、鬼たちと遊ぶ話だ。川浪さんが仏教的な解説を
する。「えー、メイドというと、若い人は喫茶のことかと思うかもしれませんが……」。約20人の観客が、
どっと笑った。
高齢化する釜ケ崎。今回の公演は彼らの生きがいをつくるのが目的で、大阪市立大学のプロジェクト
の一つだ。川浪さんはこうした支援活動にかかわっている。釜ケ崎のほど近くに生まれた。親類には教師や銀行員など「硬い仕事」の人が多い。だが、父親は釜ケ
崎でその日その日の仕事をもらう肉体労働者だった。「小さいころ、祖母に『あんたとこの父ちゃんは世間
に顔向けでけへん』と言われました。でも怒りは外に向かわず、内にこもったんです。中学校から不登校に
なりました」家計を助けるため、20代半ばまで新聞配達員や飲食店の店員などをした。その間も「やがて死なない
かんのになんで生きるんやろ」といった問いばかり考えた。仏教への関心が深まった。真宗大谷派の僧籍
を得たのは28歳のとき。住職のもとで葬儀などを手伝う役僧となった。しかし宗教者として納得できる役
割は見つからない。転機は04年。福祉団体の臨時職員になったところ、ホームレス状態の人を就労意欲のあるなしなどで
ランク付けしなければならなかった。「ぼくを不登校に追い込んだり、おやじを排除したりする社会の仕組
みと同じ。耐えられなくなりました。いずれにせよ、ぼくのルーツである釜ケ崎の問題から目をそむけてい
られない。一度はぶつかってみようと思いました」
翌年。ほとんどの持ち物を処分することにした。冷蔵庫やステレオなどを釜ケ崎に捨てに行ったとき、
一人の男に言われた。「にいちゃん、ええゴミ持ってるなあ」。こんなもん、たしかにゴミや、と笑った。何百
万円もつぎこんだ高価な仏教書は20万円にしかならなかった。
賃貸マンションを引き払い、日払いの安宿へ。それも払えなくなり、6月から通天閣が見える路上で暮
らし始めた。最初の10日間は段ボールを敷き、毛布をかぶって寝た。やがて木枠にビニールシートを張っ
た小屋に住む。
日雇い労働や路上生活の男たちのことを、親しみを込めて「おっちゃん」と呼ぶ。「金が入ると一緒に飲
もうと誘ってくれる。互いに距離を保ちながら、集まりもする。家族や故郷とのつながりが切れている人が
多いから、やっとたどりついた仲間同士なんですよ」
隣に暮らすTさんには深い精神性を感じた。「ふろに入らず体のよごれた人を、私は差別の目で見てい
る。より底辺へ行かねば」と語るような人物だ。「宗教なんか信じないといいながら、一遍上人の『一所不
住』に通じる漂泊をめざしておられるようでした。私は得度して16年目。初めて、本当に出家した気がしま
した」
9月。金はほぼ尽きていた。「そろそろアルミ缶を集めなあかんかな」。路上生活はまだ続けるつもり
だった。そんなとき、川浪さんを探していた知人に声をかけられる。「なにやってんねん?」。ホームレス支
援のNPOを立ち上げるけど事務局長がいないから手伝ってくれ、という。
「自分を必要としてくれる人がいる。ああ、自分の大切なものがそこにあると改めて気づきました。そん
ならもう一度、戻ってみようかと思いました」
同じ目の高さで触れ合ったことで、おっちゃんたちとのかかわり方が自然になった。「かわいそうなおっ
ちゃんたちを救う、というのはとんでもない思いあがり。自分の限界を認め、肩に力を入れず、できることを
やる。そういうスタンスになりました」やはり自分が戻っていくところは、父親と同じ「おっちゃん」たちのもと。今は公園管理の仕事をしながら
彼らの晩年に添っていくつもりだ。来年をめどに仲間の他団体の宗教者たちと共同墓をつくる計画も進め
ている。故郷を失った人たちの「死んだらどこへ行くのだろう」という不安を少しでも和らげることができる
はずだ。
「ぼくはおっちゃんたちのなかに、こころの響き合いを感じるんです。自分も同じ墓で眠るのは悪くない
なと考えています」